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牟礼のまちだより
石の町・源平の町「香川・牟礼」の文化、芸術 そしてなつかしき風景(昔の写真)「むれ源平まちづくり協議会」「石あかりロード」の情報をお伝えします。
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文化たかまつの御一行様
高松市文化協会が発行している『文化たかまつ』という小雑誌。
文化たかまつ1
次回の第59号は清盛がらみで平家特集。

ということでその取材に訪れました。
文化たかまつ2

平家関連の話といいましても・・・・・・と雑談ばかりしてしまいまして~~~。

執筆担当のEさん。頑張ってくださいね~。


ちなみに、2005年の新春号に掲載された記事がこちら。ご参考に~~。

眺海山(ちょうかいざん) 洲崎寺(すさきじ)
             
 洲崎寺は、大同年間(806)の創建であり、現在までの千二百年の歴史の中に繁栄と衰退を繰り返している。源平合戦時(1185)は堂塔・伽藍があったが源氏の焼き討ちにより焼失した。その後、再興されたが天正年間(1573~)長曽我部の当地乱入の節、再び兵火に遭い堂塔並びに記録も焼失し、草庵のみとなっていた。そして、元禄十二年(1699)再興され、現在に至っている。再興三百年平成大改修の際に源平史跡の案内板と、古戦場を回想できる庭園を造築し、史跡めぐりの参考になるようにしている。

【和歌山松生院への移築】

 千二百年の歴史の中に本堂の移築という話もある。文化六年(1809)三月発行の「紀伊国名所図会一之巻上 和歌山部」に以下のように記されている。

  向陽山松生院芦辺寺に当寺はもと讃州八島檀ノ浦に建っていた。仁明天皇承和九年(842)智證大師(空海の母方の甥、円珍)密法修行の折、不動明王化現して奥旨をさずけられたので大師随喜の涙とどめなく長く報いん為、自ら一体の尊像を彫刻。是が本堂に安置する霊像である。こういう次第で大師の御父和気宅成、本堂を造立せり。霊験あらたかなのでその後清和天皇貞観七年(865)勅願寺とする。後鳥羽天皇寿永四年(1185)平家西海に滅びる頃、当寺も共に兵火にかかり焦土となる。しかし、本尊及び霊像は不思議に免れた。源氏が凱歌を奏する日、在家・寺院を焼き討ちしたことを悔い義経は僧坊を建立、霊跡を残した。
 乾元元年(1302)秋八月不動明王の霊告あって、和歌山芦辺浦に移転。次いで名草郡山東荘黒岩村に移り、後、浅野幸長入国、今の和歌山市片岡町に移り後、徳川頼宣入国依頼大いに修繕を加えて保護寺とした。

つまり、洲崎寺に伝わる不動明王は本堂と共に乾元元年に和歌山・松生院に移されたということである。

【佐藤継信忠死と義経愛馬 太夫黒】

 屋島檀ノ浦の戦いでは数多くの死傷者が出た。義経四天王の中の佐藤継信もそのひとりである。平家きっての強者・能登守 平教経は源氏の大将・義経を射落とさんとするが、武蔵坊弁慶、佐藤継信・忠信の兄弟、江田源三らの勇士たちが駒を並べて立ちはだかり、教経が「九郎判官義経はいずこにあるや・・・」と放った矢は、先頭を切って立ち向かってきた継信の左の肩から右の脇腹を射抜いた。継信は義経の身代わりとなって忠死したのである。そして、継信の亡がらを洲崎寺の焼け落ちた本堂の扉に乗せて源氏の本陣まで連れ帰った。「平家物語巻十一継信最後の事」の段に以下のように記されている。
 
判官(義経)は陣の後へかき入れさせ、いそぎ馬より飛んで下り、手を取って、「如何が覚ゆる三郎兵衛(継信)」と声をかけると、「今はこれまででございます。」「この世に思い置く事はないか。」と申すと「別に思い残す事はありません。そうは申しても君の世になるのを見ずに死ぬのが心残りでございます。弓矢取りは敵の矢に当たって死ぬ事はもとより覚悟している所、継信という者讃岐国八島の磯で主に代わって討たれたと末代迄の物語に申されるこそ今生の面目、冥途の思い出にございます。」と。義経は勇猛な武士であるがあまりに哀れに思われて鎧の袖を顔に押し当ててさめざめと泣かれた。もしこの辺りに尊き僧は居るかと尋ねだし「手負の只今臨終なので一日経(法華経を1日で写経すること)を書いて弔い下さい。」と。そして、太く逞しい黒馬と良い鞍を置いてお布施にした。

 また、源平盛哀記には以下のように記している。

冥途の旅に馬に乗っていけと。この馬は義経が判官五位尉になられた時、この馬も五位にして「太夫黒」と呼んだ馬で、一の谷合戦時鵯越をこの馬で下りた。弟忠信を始めとして、これを見る侍ども皆涙を流して、この君の為に命を失う事は全く露塵ほども惜しくないと申した。

 このように、義経は継信の死を哀れみ、愛馬「太夫黒」を継信の供養のために布施した。そして、牟礼町王墓の継信の墓の隣に葬られている。「太夫黒」について、「東鑑」では後白河法皇より賜り物となっているが、「源平盛衰記」には藤原秀衡が愛馬を贈ったと書いている。また、「太夫黒」の出生地は岩手県千厩町であり、その地(国道284号線沿い)に平成五年太夫黒顕彰碑が建立された。これは高松藩二代松平頼常公が元禄十六年(1703)十河保定に命じて碑銘を作らせたが、頼常公死去のため頓挫した。そして、その草稿だけが屋島寺に残っていたものを再現したものである。



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